秦野市の水無川沿いにある秦野病院を運営する医療法人社団秦和会の髙橋幸枝理事長にお会いしてきました。髙橋さんは1916年(大正5年)新潟県上越市に生まれる。地元の高等女学校を卒業後、既に東京で暮らしていた五歳年上の姉を頼って上京し、海軍省でタイピストとして働き始め、1939年(昭和14年)に中国山東省青島の海軍省に転勤する。2年前の1937年(昭和12年)に起きた盧溝橋事件に端を発した日中戦争の真っただ中に中国に渡っている。そして、青島の教会で「北京の聖者」と言われた清水安三牧師に出会い、同氏が設立した北京の貧しい少女達の教育と自立を目指す「崇貞学園」や生活環境が著しく劣悪な天橋地区の生活改善のための社会福祉施設「愛隣館」の話を聞き、強い衝撃を受ける。異国の地にあって恵まれない人びとのために一身を捧げている日本人がいることに。
「自分が本当にやりたい仕事はこれではないか」との思いが募り髙橋さんは清水氏に何度も手紙を書き送り働かせて欲しいと願い出る。一度は断られるも「そこまで言うならいらっしゃい」と許しを得て、1942年(昭和17年)に青島の海軍省を退職し崇貞学園の一員となる。 髙橋さんは教員の資格が無かったので清水氏の秘書のような形で雑用全般を引受けることになる。ある時、清水氏から「髙橋さん医者になりなさい。日本に帰って医学部で勉強し、戻って愛隣館の仕事をしなさい」と突然言われたそうだ。愛隣館内に診療所があったが愛隣館のあった地区はスラム街のようなところだったし、給与も安かったので医者がなかなか集まらなかったのだ。髙橋さんは医師になればもっと人に喜ばれるし、もっと役に立つと決心し、日本へ帰国する。その時27才。
上越市の実家で三か月間猛勉強し、福島県立女子医学専門学校に合格する。無事卒業し、医師の資格を得ることになるわけだが、清水氏との約束だった北京の愛隣館で医師として働くという目的は日本の敗戦により果たせなくなっていた。既に清水氏も北京からリュック一つで日本に引き揚げてきていた。
髙橋さんは故郷にある新潟県立高田中央病院でのインターンを経て同病院で新米医師として働くことになる。一方、清水氏は東京町田市の旧陸軍造兵廠の寄宿舎を借受けて桜美林学園を開校させていた。そんな清水氏から髙橋さんに学園に診療所を作るので手伝ってほしいと再三連絡がきていた。それに応える形で1953年(昭和28年)3月に病院を辞め、桜美林学園診療所の校医となる。診療所といっても軍需工場の荒れ果てた寄宿舎を改造したもので髙橋さんは廃材でつい立を作ったり、埃だらけの室内を夢中で掃除をしたりとまさに一からのスタートだった。皮膚病や回虫持ちの子たちの診療に忙しく、また、病院が近くに少なかったこともあり、近隣に住む人たちの診察や往診に追われる日々だったそうだ。
そんな中、清水氏から医学部を作るから手伝えとのお話があった。髙橋さんもさすがにこれは無理なことと思い、学園を離れ臨床医で生きていこうと考え、1955年(昭和30年)に小田急中央林間駅の近くに中央林間診療所を開業する。翌年には妹の芳枝さんが夫が心筋梗塞で急死したため新潟から幼子二人と義母を連れて中央林間に引っ越してきた。それで診療所の諸事を手伝ってもらうことになる。それ以降、商売の才のあった芳枝さんと二人三脚で事業を拡大していく。
1966年(昭和41年)には中央林間診療所に加え秦野市内に精神科、内科の秦野病院を開業する。同年には精神科を学び直そうと慶応義塾大学医学部付属病院の精神科で勉強する。髙橋さん53才の時である。小さな診療所の切り盛りから68床のベッドを持つ病院の経営を経験することになるが、これを芳枝さんと力を合わせて軌道に乗せていく。その後も事業意欲は衰えず、病床の拡大、古くなった病院の建て替え、「はたの林間クリニック」、「子どもメンタルクリニック」、「はたの渋沢クリニック」の開設や地域移行型ホーム「はたのホーム」、グループホーム「わかば」と事業領域を広げ、2015年1月にはデイサービスや就労移行支援サービスなどを行うケアセンターを開所させている。後年は妹さん達のお子さんも医師や事務スタッフとして髙橋さんを支えている。
髙橋さんは今も毎日午前中は診療の現場に立つという。大正、昭和、平成を生き、懸命に働き続けてきた98歳の現役精神科医師に敬意を表したい。髙橋先生、大好きな日本酒、いつまでも楽しんで下さいね。
医療法人社団秦和会
理事長 髙橋 幸枝(たかはし さちえ)
神奈川県秦野市三屋131番地 職員数:160名 出資金: 1,600万円
事業内容: 秦野病院(精神科・内科)、はたの林間クリニック、子どもメンタルクリニック、はたの渋沢クリニック、はたのホーム、グループホームわかば、就労移行支援事業所りんく、ディサービス「くつろぎ」の運営
URL:
http://www.hatanohp.or.jp/