かわらばん

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かわらばん入居版67号 2010年1月

石川の日光街道 道中記 第1回
   ― 21年12月8日(日)日本橋~草加宿 ―
 東海道を6 月に歩き終えて「次は、何をしようか-----」と考えているうちに半年が過ぎてしまった。マラソンの練習時間のこともあり、一番距離が短い日光街道に挑戦することにした。
 日光街道は江戸~日光までの21宿142 km である。宇都宮までは奥州道と呼ばれていたが、徳川将軍の東照宮への参詣が盛んに行われるようになると、日光街道と呼ばれるようになった。
 6 時50 分日本橋に立つ。これまで日本国道路元標などに目が向いて、反対側の橋詰の魚河岸跡記念碑を見て、この地に大正12年まで魚河岸があったことを初めて知りました。三越前を右折すると、ホテル ギルモンド東京の植込みに水戸街道の道標がある。小伝馬町交差点を左折すると十思( じっし) 公園がある。ここは傳馬町牢屋敷跡で吉田松陰終焉の地でもあり、前の大安楽寺には江戸伝馬町処刑場跡の碑がある。繊維問屋街の横山町そして玩具の浅草橋をすぎる。浅草では雷門をくぐり、シャッターを開け始めた仲見世を進み、改装中の本堂をお参りして道中の安全を祈願する。
 言問橋の向うには東京スカイツリーが245mを越えた威容を表している。2011年12月の完成時には634m(武蔵)となり自立式電波塔として世界一だとか。
 9時を回っても5km しか歩けず、泪橋を過ぎ南千住の小塚原刑場跡・回向院と巡り、千住大橋を渡ると「奥の細道 矢立初めの地」の碑がある。初めての宿場千住宿に入る。千住はやっちゃ場(市場)として江戸へ青物を供給する一大市場として栄え、青物問屋 葛西屋・葱問屋 川﨑屋・川魚問屋 鮒与等の屋号立て札があり、昭和の40年代まで見られた活気のある商店街である。歴史プチテラスの係員が「今でも6 割の方は以前から住われている方々」ということでさぞ住み良い土地柄と思われる。紙問屋横山家や絵馬屋、接骨医の名倉医院など2km ほどの中に凝縮され、また訪れてみたい街並みである。
 荒川を渡り、梅島駅を過ぎ、環七を越えて島根を左折すると、秀忠や家光が日光参詣のおりに立ち寄ったといわれる国土安穏寺があり、その先には小林一茶ゆかりの炎天寺がある。
 街道に戻り竹ノ塚では道中距離は14 km にもかかわらず、すでに時刻は14:18のスローペースである。保木間を過ぎ毛長川を越えると草加市に入り、せんべい屋が目に付くようになる。瀬崎浅間神社・火あぶり地蔵をすぎ、草加宿に入ってきたが「本日はここまで」と草加駅に向かい、14:30到着。街道歩行距離18 km でしたが、見物時間や道を間違えたりしたので実際は22~24km でしょうか。万歩計は38,984 歩でした。
つづく

紙問屋横山家
奥の細道(矢立初めの地)