かわらばん

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かわらばん地域版19号 2012年6月

株式会社向洋技研
   誰でも簡単に美しい溶接を。 世界のモノづくりの現場で愛される「NYSPOT]
 中央区田名にある株式会社向洋技研の本社工場に甲斐美利社長を訪ねました。社員全員の真っ白な制服がとても印象的でした。
 甲斐さんは宮崎県東臼杵郡南浦村須美江(現在は宮崎県延岡市須美江町)できびなご漁や炭焼きを家業とする家の三男として生まれる。教育熱心な父親の勧めもあり宮崎県立向洋高等学校(現延岡工業高等学校)の機械科で学び、卒業後は本田技研の創業者本田宗一郎氏が私財を投じて設立した株式会社ホンダロックに入社する。
 甲斐さんは大阪の大手メーカーへの就職を望んだがかなわず、地元で創業したばかりのホンダロックに入社し、人生の師と仰ぐ本田氏に巡り合うことになる。入社して3年目にはホンダロックでの仕事ぶりが買われ、本田氏直属のプロジェクトに加わることになる。その当時、本田技研はマン島の二輪レースで連勝を重ねていたが、マシンの心臓部であるカムチェーンだけは英国のレイノルズ社製。それが我慢できなかった本田氏は本田技研グループから精鋭20人を集め純国産で世界最高のカムチェーンをつくるためのプロジェクトチームを立ち上げ、甲斐さんは熱処理のスペシャリストとしてチームに参加する。「とにかく厳しかった。本田さんはものづくりの裏側まで見通して切り込んでくる。世の中にこんに怒鳴る社長がいるのかと。でも、最年少の私には車や技術のことをやさしく教えてくれる一面もありました」と甲斐さんは懐かしそうに話す。また、入社したときから、本田さんは30歳定年を説いたという。「ホンダの設計技術とものづくりは世界一、それを10年学んで習得できなくて会社に残っているようではだめ、みんな独立しなさい」
 その影響を強く受けた甲斐さんは10年勤務したホンダロックを昭和49年に退社し、相模原市に住む兄の会社を手伝いながら営業や経営の経験を積んだ後、昭和56年に下九沢で設計会社を創業する。相模原市大山町にあったセントラル自動車の抵抗溶接機の治具の設計を専ら手掛ける。そんななか、コピー機のメーカーから用紙を入れるワゴンの溶接について用談を受ける。「一日に400個もの箱物のワゴンを作るのに、人間が身体をねじ込んでガンを押えつけて溶接している。作業も大変だし、作業員もヘトヘトになって溶接の品質も悪い。何とかならないか」そこで甲斐さんの脳裏に浮かんだのが、機械化されたスポット溶接で流れるようにつくられる自動車生産の現場。「なぜ、一般の精密板金業界では非効率で負担の大きい溶接作業が続いているのか」この疑問を解決するために考えたのが熟練技能者の持つ溶接のノウハウ・条件・動作をビルトインしたテーブルスポット溶接機。相談を受けた翌年の昭和63年には大阪の展示会でテーブルスポット溶接機「MYSPOT」を発表し大きな評価を受ける。この装置が ゙誰でも簡単に美しい溶接゙ を可能した。溶接業界にとって100年ぶりのセンセーションを巻き起こしたのだ。最新の技術やノウハウを取り入れ進化を続ける「MYSPOT」は中国、東南アジア、ヨーロッパでも販売され、現在の向洋技研の海外比率は35%を超えている。「MYSPOT」は世界のモノづくりの現場で愛され、重宝される装置として不可欠な存在になっていくだろう。
 社名の向洋技研は母校向洋高校からの引用。向洋高校は日向灘の北端延岡市の海岸沿いにある。「15歳で故郷を遠く離れ高校の寮に入り、夕方になると海岸の砂浜に座りじっと海を見つめていました。その頃の想いを起業時に思い出し引用しました」初めての一人暮らしで心細さもあっただろうが、どこまでも広がる日向灘の海を眺め、甲斐さんは大きな希望や自主独立の志を抱いたのだろう。そして、その想いは今も続く。

株式会社向洋技研
代表取締役 甲斐 美利
所在地:相模原市中央区田名4020-4
従業員数: 30名
資本金: 2千万円
売上高: 5億円(平成23年度)
事業内容:テーブルスポット溶接機「MYSPOT」及び関連商品の設計・製造
URL:http://www.koyogiken.co.jp/